ナレッジ概要
日本では、チョウを起点として地域の自然環境を学ぶ機会を提供する独自の環境教育が発達してきた。これは、広く一般的な生物多様性に焦点を置いている欧米の蝶園における環境教育プログラムとは趣が異なる。その背景には、学校教育の中に昆虫が取り入れられてきたこと、チョウは地域の里山に存在する身近な存在として認識されてきたことなどが挙げられる。こうした日本式のチョウを用いた環境教育の在り方は、同じくチョウが身近に存在するアジアの国々に応用可能な要素が多いと考えられる。
背景(歴史・発展)
日本の蝶園(昆虫園)は、昆虫の生活と自然環境との繋がりを学ぶ場として発展してきた。特に農村地域では、昆虫を観察することで、農地・田んぼの変化にも気づくことができ、昆虫の存在は人々の日常の中に自然と根付いていた。そのため、昆虫をとおして身近な自然について学ぶというプログラムが発達し、近年では地域の小中学校と連携して環境教育の実践の場として大きな役割を果たしている。
日本における昆虫と学校教育の繋がりは古く、明治中期頃にはすでに昆虫が学校の理科教育に登場し、戦後10数年後まで生物教育の中で大きな比重を占めてきた。その後、昭和33年に文部科学省の学習指導要領の方針は昆虫の採集重視から観察重視へと変わり、こうした一連の背景が昆虫の観察や飼育の場として昆虫園の果たす役割を大きくしてきたと考えられる。
一方、欧米の蝶園も教育的機能を帯びており、歴史的にも教育の場として発展してきた経緯を持つが、欧米では世界の蝶やその生態、ポリネーターとしての役割などに焦点を当てたプログラムが主流であり、身近な地域のチョウや自然環境を対象に置く日本の環境教育プログラムとは趣が大きく異なる。
さらに、蝶園自体の運営に関しても日本は欧米とは異なった性質を持つ。日本では多くの蝶園が大規模な飼育施設を併設し、チョウを自前で養殖して、来園者には実物のチョウの成長の過程や自然との繋がりを伝えている。加えて、日本では外国産のチョウの輸入規制が欧米と比べて強いこともあり、蝶園で見られるチョウは国産のチョウが中心である。一方欧米の蝶園では、手間やコストがかかるという理由からチョウを蛹の状態で海外から輸入している例が多く見られ、生体展示のチョウも全世界の種類が対象となっている。海外でも教育目的に主眼を置く蝶園が見られるものの、運営方針の観点からは、欧米の蝶園は商業ベースの娯楽施設が目立つのに対し、日本の蝶園は教育目的の施設が多い傾向にある。
こうした活動の違いから、日本の蝶園は地域との繋がりが強く、地域向けのアウトリーチ活動も様々実施しており、蝶園の存在が地域社会全体の環境意識の向上に貢献してきた。また、欠かせない重要な点として、日本では蝶園や学校におけるチョウを使った環境教育の普及によって、幼少期に昆虫に関心を持つ、いわゆる昆虫少年/少女の興味をはぐくむ環境があり、これらの昆虫少年/少女が将来の自然保護の主要な担い手やサポーターとなっていることが挙げられる。多くの途上国では昆虫遊びは子どもの遊びとして認識されている程度で、知的関心を深める対象とはなっていない。それは、途上国では当分野における人材が育っていないという状況に通じている。これらの点から、蝶園や学校教育におけるチョウを使った環境教育プログラムは日本の優れた財産であると言える。
具体的技術(製法、作業方法、実施方法等の具体的なナレッジの方法)
日本の蝶園では、チョウの完全変態の過程、つまり卵から成虫になるまでの過程を見せることで、チョウと自然界の相互依存性、生命の大切さなどについて伝えている。また、放蝶園(生体展示空間)においては、解説員と一緒に歩きながら、チョウの見つけ方、特性、どのような一生を辿るかなどを、興味深いストーリーを交えて学ぶことができる。学校向けのアウトリーチでは、実際に卵を採集してチョウを飼育したり、校庭や裏山に入ってチョウの観察をしたりするプログラムを提供している。
これらの環境教育プログラムは、1966年に日本で初めて歩いてチョウと触れ合うことのできる温室型放蝶園が多摩動物公園に設置されたことに端を発する。その後、日本各地に昆虫園が誕生し、それぞれの昆虫園において子どもや親の関心を惹き、身近な自然に興味を持ってもえるよう地域独自のコンテンツが磨かれてきた。中には昆虫と農林業や観光業など地域の地場産業との繋がりに強く関連した昆虫の域外保全に資する昆虫園もあり、産業との共栄共存、自然環境に配慮した持続的な経営の普及、森林の多様性保全などに広く深く貢献してきている(図1)。
ナレッジ活用事例
1) 平戸市の取り組み:たびら昆虫自然園
蝶園を起点とした地域への環境教育の普及として、途上国への参考になる事例に、長崎県平戸市田平町にある「たびら昆虫自然園」の取り組みがある(図2)。たびら昆虫自然園は、地域に残る里山の原風景をそのまま活用し、そこに集まる昆虫などの生き物を自然のまま観察する形式で展示を行っている。温室の放蝶園に集約的にチョウを展示する方法では、より多くの数や種類のチョウを観察できる一方で、建設費や維持コストが膨大である。その点、たびら昆虫自然園のように地域の一角をそのまま切り取って昆虫観察の舞台とする方法は、手入れや人件費程度にコストが抑えられ、途上国の小さなコミュニティにおいても実施が可能である。ここでは地域の学校に加えて隣接する福岡県の学校からの訪問がほぼ毎日行われており、週末には再度子どもが親を連れて訪問してくる。地域の自然をそのまま活用しているため、解説員に教わったチョウや昆虫の生態や見つけ方は、すぐに身近な環境の中で生かすことができる。さらに、田平町全体としても「昆虫の里」として地域づくりを行っており、案内標識に昆虫が取り入れられたり、道の駅が昆虫をコンセプトとした作りとなっている(図3)。このような地域と一体になった一連の取り組みにより、たびら自然昆虫園の存在は人々の昆虫や自然への関心を深めるのみならず、郷土愛や地域コミュニティの醸成にも大きな役割を果たしていると考えられる。。田平町の取り組みは、もともと雑木林など自然豊かな里山の景観があり、町の規模が小さく地域一体で取り組みやすいといった特徴に基づいた事例であり、似たような条件を持つカンボジア山間部など途上国にも適用できる素材が多いと考える。
2) 庄原市の取り組み:農林業との共存
1) で紹介した地域の地場産業との共存共栄という点では、昆虫と農薬との関係を理解し農林業との共存を考えるプログラムが各地域で実施されてきた。例えば、庄原市比和町(広島県)では、地域の主産業であるそば作りにおいて、そば畑に生息する昆虫を地域の中学生が観察し、農薬の使用量によっていかに生態に影響を及ぼしているかを考察し、発表するのが恒例となっている(図4)。加えて、地元の小中学生や親子を対象に、森林の中で昆虫を探すプログラムなどを定期的に開催しており、こうした一連の取り組みにより、地域社会における自然環境への意識が高まり、農薬の減量や身近な森林への愛着が高まっている。これは、小規模なコミュニティーであるからこそより地域との密な連携が可能であるという例と考えられ、途上国の山間地や農村部でも参考になる活動が多い。
3) 東御市の取り組み:大手企業との協働
東御市(長野県)では、チョウを起点として大手企業も巻き込んだ環境教育活動が行われている。東御市は日本では数か所にしか生息していないオオルリシジミ(絶滅危惧種Ⅰ種)が生息する貴重な自然環境を有しているが、そのオオルリシジミの生息地がシチズンファインデバイスの工場敷地内に位置していることから、シチズンファインデバイスが保全活動へ積極的に参加するようになった。その後、工場の従業員が生息環境の保全を行い、毎年オオルリシジミが成虫になる時期には、工場が敷地を開放して親子観察会を実施したり、市と連携して学校教育プログラムにも携わったりしている。シチズンファインデバイスでは社会貢献の位置づけとしてこの取り組みを始めたが、現在では親子観察会に従業員の家族や他の事業所からも社員が多数参加するようになり、会社全体の自然への愛着や保全意識の向上、SDGsの達成等に貢献しているとのことであった(図5)。
また、東御市では、オオルリシジミが生息できる環境を残すため、地域の農家や小学校と連携して、里地の保全や有機栽培によるコメ作りに取り組んできた。その中で八重原米という特Aランクのブランド米が誕生し、農業と共存共栄可能な優良事例となっている。同様にチョウや他の昆虫と共存する有機栽培の実践により、付加価値のある農産物を生産する事例は広島の有機赤米(古代米)など、日本各地で見られる。農薬の過剰な使用は途上国で一般的に見られる光景であるが、途上国においても有機栽培や減農薬への関心が徐々に高まっており、今後は付加価値化していく可能性が大きい。従来、昆虫と農業は対極の関係にあるが、共存を目指す日本の環境教育を普及することで、今後は森林を含む地域全体の環境保全に貢献していくと考えられる。
ナレッジ活用モデル
日本における位置づけ・特徴
日本は、世界の中でもチョウ保全の取り組みや環境教育の実践が進んでいる国である(世界で保全協会が存在しているのは英、蘭、米、独、豪のSA州など数える程度である))。チョウ保全協会の存在や、チョウを起点とした環境教育を学校教育のカリキュラムに取り入れている点では、アジアでは最も先進的であり、前述のように地域の身近な自然との繋がりに重点を置いた環境教育の実践という点では世界でも独自の存在を築いてきたと言える。
日本ではチョウが里山のシンボル的存在として位置付けられてきた。チョウの保全を通した里山保全を中心的に担っている人々の多くが、幼少時代に里山で昆虫を追いかけた経験を持っているのが大きな特徴である。しかし、近年は都市型の生活様式への移行により、子ども達が里地里山で昆虫と触れ合う機会や時間が激減している。そのため、今ではチョウを含む昆虫に焦点を当てた学校教育プログラムを活用することによって、子どもたちが自然環境の中で昆虫を発見する楽しみを知ることができる。子供のころの原体験が将来自然保全への大きなモチベーションへと繋がっていくと期待されている(図6)。
ナレッジの所有者・継承者および連絡先
ここで紹介した昆虫園等に限らず各地でNPOが活動している。地域ごとに専門家と連携しながら創意工夫がなされている。
関連URL
たびら昆虫自然園 https://www.hira-shin.jp/tabira-insect-park/
広島市森林公園こんちゅう館 http://www.hiro-kon.jp/
箕面公園昆虫館 http://www.mino-konchu.jp/
ぐんま昆虫の森 http://www.giw.pref.gunma.jp/
オオルリシジミの保護活動(シチズンファインデバイス株式会社HP) https://cfd.citizen.co.jp/csr/oruri00/
日本チョウ類保全協会HP https://cfd.citizen.co.jp/csr/oruri00/
昆虫科学教育館 http://isrc.sub.jp/
引用・参考文献
矢島稔編『昆虫の国-多摩動物公園昆虫生態園をつくる-』(1990年)けやき出版
松良 俊明(1993)「『昆虫採集』の教育的意義についての一考察」『京都教育大学環境教育研究年報第一号』 pp.55-65
その他
チョウなど昆虫に興味をもつことで、森林環境や生物多様性の重要性の理解が進み、森林の保全につながることが期待できる。
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